川越で暮らす知恵

川越宿

明治初期の川越宿です。正面奥が大手門、右奥が川越城になります。
中央にある川越街道は、鈴木屋米店(川越市松江町1丁目)前と和菓子屋洋光堂(川越市松江町2丁目)前の2ヶ所が、街道が2回直角にクランクして鉤の手になっています。現在の道路は、直角部分を斜め45度方向にして車の流れがスムーズになるように改良されています。
※川越市立博物館に展示されている模型を撮影

時の鐘

埼玉県川越市幸町15-7
川越市指定有形文化財 昭和33年3月6日指定
木造3層構造
高さ約16メートル

時の鐘は、江戸時代初期(1627年~1634年・寛永4年~11年)の間に、川越城主酒井忠勝により現在の場所に創建されました。400年間に渡り、川越の城下街の暮らしに欠かせない「時」を告げてきた小江戸川越のシンボルです。現在は、毎日4回、6・12・15・18時に鐘が鳴ります。現在の鐘楼は、明治26年(1893年)に起きた川越大火の翌年に再建されたものです。



川越城本丸御殿

埼玉県川越市郭町2-13-1
入母屋造りの屋根で、豪壮な唐破風(からはふ)と霧除けのついた間口19間・奥行5間の大玄関・車寄せ、36畳の大広間など165坪の建物が現存している。往時は16棟、1025坪の建物がありました。

現存する日本の本丸御殿遺構は、川越城と高知城の2ヶ所だけとなります。

歴史

天守の築城は、戦国時代に織田家中で広まり、豊臣秀吉政権時代に全国に普及しました。関ヶ原の戦い後は、諸大名が新天地にこぞって城を築きました。しかし、江戸時代に入ると、徳川幕府から「一国一城令」と「武家諸法度」が出されました。大名の居城となる1城以外の城の破却と、城の新築工事の禁止が定められ、全国にあった約3000の城が、約170に激減したといいます。

 

江戸時代末期まで残った城も、明治6年(1873年)の「廃城令」により、要塞として必要な城は「存城」、不要な城は「廃城」が通達され、現存天守は12城となりました。川越城は、1869年(明治2年)頃に廃城になりました。

河越氏

相武平氏秩父氏の流れをくむ河越氏は、武蔵国の武士を統括する留守所総検校職を相伝する名門で、河越荘が成立した12世紀後半頃から約200年余りの間、武蔵国を代表する武士として活躍しました。

なかでも重頼は源頼朝に厚く信任され、娘も源義経に嫁ぎますが、後に義経縁者の立場が災いして処刑され、勢力が衰えます。その後、経重が活躍した13世紀後半頃には再び隆盛しますが、応安元年(1368)、鎌倉府に背いた平一機の乱で敗れ、姿を消しました。※川越市立博物館の展示パネル参照

河越館跡

川越市上戸194
河越館跡史跡公園・国指定史跡
河越荘(かわごえのしょう)を治めた河越氏の居館は、東に入間川、西に鎌倉街道を離む上戸の台地上、水・陸の交通をおさえた要衝に位置しています。史跡整備に伴う発掘調査により、川と街道を結ぶ東西の道に沿って、堀や塀で囲まれた屋敷や寺院が並ぶという13世紀~14世紀中頃の景観が明らかになってきました。また、河越氏滅亡後も戦国期に至るまで、跡地が繰り返し利用されてきた様子もわかっています。

※川越市立博物館の展示パネル参照

北条氏の河越支配と河越合戦

天文6年(1537年)、北条氏綱は河越城を攻略し、この年から北条氏による河越支配が始まりました。河越城奪回を目指す扇谷上杉朝定は、天文14年秋頃、山内上杉憲政,古河公方足利晴氏と共に河越城を包囲しました。翌15年4月北条氏康は河越城救援のため出陣し、上杉連合軍に奇襲を仕掛け少数で大軍に勝利しました。(河越合戦)この戦の勝利により北条氏は河越地方を直轄領とし、河越城代に重臣の大道寺氏を配置しました。※川越市立博物館の展示パネル参照

川越藩と歴代藩主

天正18年(1590年)、徳川家康は駿府から江戸城に移り、関東地方は、徳川氏による支配が始まりました。川越城は家康の重臣酒井重忠が1万石で配置され、ここに川越藩の基礎が成立しました。重忠以後の藩主は、松平信綱や柳沢吉保を始め8家21人にのぼり、いずれも親藩・譜代大名で占められていました。また彼らの多くは、大老や老中・側用人等、幕政を担う重臣でした。※川越市ホームページ参照

川越城下町割図(川越市立博物館所蔵)

永島家住宅(旧武家屋敷)

埼玉県川越市三久保町5-3
敷地面積:1184.62㎡
建物面積:177.94㎡
川越市指定史跡 平成18年3月27日指定

永島家住宅(旧武家屋敷)は、江戸時代後期の中級武士の屋敷です。江戸時代、現在の埼玉県内には、川越藩、忍藩(現・行田市)、岩槻藩(現・さいたま市)の三つの城下町があって、それぞれたくさんの武家屋敷がありましたが、今ではそのほとんどが失われ、当時に近い状態で残っているのはこの永島家住宅だけです。

当時の川越藩の武士たちの住まいは、藩主の一門あるいは家老などの最上級の武士だけが川越城の西側の外曲輪内に屋敷が与えられ、それに次ぐ重臣ないし上級家臣は、西大手外の北側から外曲輪の北側堀外と南大手の南側に屋敷を構えていました。この場所の武家屋敷は、軍事的に城の出入口を固める役割を果たしていたようです。その他の中堅家臣団または下級武士の屋敷は、城からやや離れて町人町を外側から包むように配置されていました。

江戸後期【当初】

L字型の平面。「玄関」は、道路に面する北側(図の上方向)にある。その南に、「次の間」、庭に面した床の間の「座敷」と続く。東側には、板敷きの「切腹の間」と畳敷きの「四帖の間」がある。「切腹の間」の東には、八畳の「茶の間」があり、押入れが設けられている。「座敷」の南と「茶の間」の東南に濡需縁が付く。台所となる「土間」は「茶の間」の北にあったと思われる。部屋は、来客の接待用の「次の間」「座敷」と家族が日常的に使う「茶の間」「土間」とに分けられていたと考えられる。

幕末~明治14年

この頃、西へ「下男部屋」(用途は不明)が増築されたと思われる。その際、「次の間」との間に板敷きの「通路」が設けられたようである。

明治14年

現在の間取りがほぼ整うのがこの時期と思われる。これ以前「土間」であったと思われる「茶の間」の北に、新たに「仏間」「三帖の間」「板の間」が設けられる。また「玄関」部分も改造され、「下男部屋」には新たに専用の「玄関」が設けられ「納戸」が付けられるようになる。

永島家住宅は、川越城の南大手門近くの上中級武士の侍町にあたる南久保町(現在の三久保町の一部)の一角に構えられた武家屋敷でした。
永島家住宅に住んでいた武士としては、松平大和守家時代に、
勾坂鹿平(さきさか かへい)【300石、物頭】
堤愛郷(つつみ あいごう)【250石~350石、御典医】
三野半兵衛(さんの はんべい)【250石】
が、また幕末の松平周防守家時代には、
石原昌迪(いしはら まさみち)【110石、御典医】
が住んでいたことがわかっています。

南久保町にあった武家屋敷は、永島家のほかにどのくらいの広さの武家屋敷地があって、どんな武士が住んでいたのでしょうか。松平大和守家時代の城下図から、南久保町の武家屋敷のそれぞれの敷地面積がわかります。最大で768坪(2534.4㎡)から最小で344坪(1135.2㎡)で、平均的な広さは475坪(1567.5㎡)でした。
住んでいた武士の石高は、山田才蔵の1000石を最高に、井山三郎太夫の100石の武士までがいました。なお山田才蔵の1000石は、同時期の城内に屋敷を持っていた多賀谷監物の700石に勝っています。

住んでいた武士の身分は、さまざまでした。
御番頭(杉原但見600石)
物頭(勾坂鹿平300石)
御寄合(小嶋桃之助250石)
番外頭(森田帯刀500石)
御番頭(椙九左衛門300石、山田新蔵300石)
御番外頭次席(水野平左衛門300石)
御小納戸(田中端八200石) 
側医〈御典医〉(堤愛郷250~350石)

※永島家住宅(旧武家屋敷)パンフレット参照

幕末の川越

嘉永6年(1853年)のペリー来航から、開国、明治維新へと続く時代は、対外的な危機を背景 に、国内政治が激しくゆらいだ時期です。当時の川越藩は、相模国の三浦半島(現神 奈川県)周辺に領地を持ち、ペリー来航の事態などに直接対応しました。そのため、警備に必要な費用や人馬の動員など、藩や村々にとって大きな負担となりました。また、この時期は全国各地で百姓一挨が多発し、特に武州世直し一揆と農兵反対一揆は、川越藩の村々を巻き込んだ大きな騒動でした。※川越市立博物館の展示パネル参照

 

※川越市立博物館の展示パネル撮影

川越藩と江戸湾警備

江戸時代後期になると、外国の船が日本近海にしばしば現れたため、幕府は沿岸警備を各藩に命じました。川越藩は相模国(現神奈川県)三浦半島に領地をもっていたため、相模国の沿岸警備を命じられました。嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に 来航すると江戸湾周辺の警備が一層強化されました。川越藩は、新たに建設された品川台場に警備の変更を 命じられます。警備に必要な経費や人馬の動員は、藩と村々に大きな負 担となってのしかかりました。※川越市立博物館の展示パネル参照

喜多院

埼玉県川越市小仙波町1-20-1
国指定重要文化財 昭和25年8月29日指定
客殿 附渡廊下
書院
庫裏 附玄関・玄関広間・渡廊及び接続室
慈眼堂 附厨子
鐘楼門 附銅鐘
山門 附棟札

天長7年(830年)慈覚大師円仁により創建された星野山無量寿寺が始まりとされる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。

喜多院・慈恵堂

喜多院・客殿

喜多院・渡り廊下

喜多院・庫裏寺務所

仙波東照宮

埼玉県川越市小仙波町1-21-1
旧国宝 昭和21年11月29日指定
国指定重要文化財 昭和25年8月29日 指定
本殿 附宮殿(円形厨子)
唐門
瑞垣
拝殿及び幣殿
鳥居
随身門 附棟札

仙波東照宮

仙波日枝神社 附宮殿(附宮殿の奥に本殿)

仙波日枝神社 本殿、附宮殿

埼玉県川越市小仙波町1-4-1
旧国宝 昭和21年11月29日指定
国指定重要文化財 昭和25年8月29日指定

旧川越織物市場

埼玉県川越市松江町2-11-10
建物2棟
川越市指定有形文化財 平成17年3月29日指定

旧栄養食配給所

埼玉県川越市松江町2-12-4
川越市指定有形文化財 平成17年3月29日指定

菓子屋横丁

埼玉県川越市元町2丁目
菓子屋・駄菓子屋が立ち並ぶ商店街

川越市立博物館

埼玉県川越市郭町2-30-1

職人の技術伝承や川越市に関わる歴史的および民俗的な資料を収集、研究、展示する博物館。

左が川越市美術館、右が川越市博物館

歴史的風致維持向上計画 認定都市

川越市は、歴史まちづくり法(平成20年)により歴史的風致維持向上計画都市に認定されています。
我が国のまちには、城や神社、仏閣などの歴史上価値の高い建造物が、またその周辺には町家や武家屋敷などの歴史的な建造物が残されており、そこで工芸品の製造・販売や祭礼行事など、歴史と伝統を反映した人々の生活が営まれることにより、それぞれ地域固有の風情、情緒、たたずまいを醸し出している。「歴史まちづくり法」は、このような良好な環境(歴史的風致)を維持・向上させ後世に継承するために制定された。