川越で暮らす知恵

川越の民家の歴史


縄文時代

約6000年前、地球温暖化により、海水面が現在より2〜3m上昇し、海岸線が内陸へ入り込む縄文海進が起こりました。川越一帯は市の南東部まで遠浅の海でした。縄文時代にはすでに人々が生活し、植物採取や狩猟・漁労などが行われ、弥生時代になると稲作が行われてムラが形成されました。市内では貝塚や古代の住居跡も見つかっています。

その後大陸からの文化が伝わり、農業の生産性も向上していきます。これにより階層が生まれ、古墳が築かれます。古墳時代を経て奈良時代・平安時代になると荘園が形つくられ、河越・仙波などの武蔵武士が支配する時代に移りました。この時代は入間川西岸地域は三芳野の里(豊かな美しい土地の意味)とも呼ばれ、伊勢物語などでも歌われています。

※川越歴史博物館のホームページ参照 >>

約6000年前の海岸線の位置
当時の海岸線の位置は、台地の縁が波の作用で削られてできた波食台の位置でわかります。
※葛飾区のホームページ参照 >>

三富新田

三富新田は、江戸時代に川越藩主松平氏・柳沢氏によって開発された新田です。
川越城から3里南の「地蔵林」を拠点に、当時広大な原野に、幅6間(10.8m)の道路を通し、間口40間(約72m)、奥行き375間(約675m)の短冊形にに区割りし、1戸分約5町歩(約5ha)の耕地を農民に均等に配分しました。開拓された新田は、東西33町・南北20町、約3,200haに及び、現在の川越市、所沢市、狭山市、ふじみ野市、三芳町の5市町に広がる広大な地域です。
※埼玉県ホームページ参照 >>

開拓民に配分された1区画は、間口40間(72m)×奥行き375間(675m)の5町歩の細長い土地です。短冊状の土地は、屋敷地・畑・平地林が配置されています。
きれいに区画された地割りには、川越藩や農民たちの知恵と工夫のあとがうかがえ、現在、埼玉県指定旧跡「三富開拓地割り遺跡」として、その景観保存が図られています。

旧島田家住宅

埼玉県入間郡三芳町上富1279-3
三芳町指定有形文化財
文化財指定年月日 平成6年3月30日
建築年代 文化・文政期(1804年~29年)
構造 木造平屋・茅葺寄棟造
規模 桁行11間半・梁間4間半
面積 51.78坪
間取 喰違型整型四間取
復元工期 平成7年8月1日~平成8年3月19日
補助事業名 埼玉県彩の国づくり特別推進事業
開館日 平成8年7月7日
平成9年3月三芳町教育委員会

旧島田家住宅は、平成3年に三芳町に寄贈されたものである。現存する三富地区最古の民家・開拓の成功を伝える民家寺子屋を営んだ民家であり、三芳町教育発祥の記念物であること等の価値を持つ建造物として、三芳町有形文化財に指定された。この施設は、三富開拓300年を記念し、三富の歴史や文化を学び、地域農業の理解や見学者との交流を図ることを目的として設置された。

日本農業遺產 武蔵野の落ち葉堆肥農法

武蔵野の落ち葉堆肥農法とは
武蔵野台地に位置する三芳町、所沢市、ふじみ野市、川越市は火山灰土に厚く覆われ作物が育ちにくい土地でしたが、江戸時代から多くの木を植えて平地林(ヤマ)として育て、木々の落ち葉を掃き集め、堆肥として畑に入れて土壌改良を行ってきました。こうした300年以上にわたり続けられてきた伝統農法を「落ち葉堆肥農法」とよびます。この「落ち葉堆肥農法」は今も受け継がれ、それにより平地林は各市町全域にその面影を多く残し、育成・管理されて景観や生物の多様性を育むシステムが作られています。このようなシステムや地域の取り組みが評価された結果、「武蔵野の落ち、葉堆肥農法」は平成29年3月14日に日本農業遺産として認定されました。

歴史

歴史

小田原北条氏の滅亡後、関東入国した徳川氏は、大規模な河川改修を開始し、灌漑用水及び排水路の整備とともに、それまで開発が遅れていた沖積低湿地の新田開発を大規模に進めました。関東地方西部の台地では、川越藩主松平氏・柳沢氏の手によって開拓が推進され、萱原と疎林からなる中世以来の広大な原野であった武蔵野は、次第に変貌していくことになります。元禄7年(1694年)1月に川越藩主となった柳沢吉保は、現在の三富の地に中心に新田開発を進めました。

町の支配


川越の城下町は、藩士が住む武象家地、町人が住む町人地や、寺社地と分かれていました。とくに町人地は十か町・四門前といい、10の町と4つの門前町で構成され、藩の町奉行の下に、町の政治を執り行う町役人が置かれました。この町役人には、町全体を代表する町年寄と各町を代表する町名主などがおり、上層の有力町人から選ばれています。町役人は町奉行の出先として町の支配に当たるほか、町の自治を支える要にもなっていました。

 

町名主の仕事

町役人のなかで、町人生活に密接に関係していたのが町名主でした。
町名主は十か町にそれぞれ1名ずつ置かれ、草分町人などの有力者が交代で勤めました。
町名主には、次のような5つの仕事がありました。
(1)町奉行所から出される町触などを伝達する。
(2)宗門入別改めなどの町内の身元調査を行う。
(3)火災防止や火の元の取締りを行う。
(4)町奉行所へ町人の請願を取り継いだり、訴訟事件の調停と和解を行ったりする。
(5)土地・家屋の売買証文などに検印する。

城下町の商業

川越藩の繁栄を支えたのは城下町商業の発達でした。城下町では早くから定期市などが明かれ、江戸と川越を結ぶ新河岸川の舟運が活発化すると、領内の農産物や物資の集散地として商業が発達してきました。その繁栄ぶりは南町の米穀商人横田治郎吉が、江戸を除く関東一番の商人として番付に載るほどで、後年に川越は「小江戸」と呼ばれるようなにぎわいを見せました。

川越十組仲間

城下町の商工業が発達してくると、同業者が集まって組織を作るようになります。この組織を「仲間」といい、川越では十組仲間が知uられています。川越十組仲間成立の過程は明らかではありませんが、天明4年(1784年)あるいは文化3年(1806年)の結成と考えられています。十組仲間は業種別に一番組から十番組まで編成されています。各組から選ばれた10名の世話役(十組大行事)が十組仲間の運営にあたりました。

藩校と寺子屋私塾

江戸時代の文化を支えたものに教育の普及があります。各藩では、藩士のための教育機関である藩校を設け、武士などの教育にあたりました。川越藩でも、講学所(博廠堂)や長善館という藩校が置かれました。
一方、庶民の教育の場としては、寺子屋や私塾が普及していきました。寺子屋では、いわゆる読み・書きそろばんなどの初歩的教育が行われ、より高い教育は私塾で行われました。

村の支配

現在の川越市域には、江戸時代中期で92の村があり、そのほとんどが川越藩領でした。それぞれの村の支配は、郡奉行や代官のもと、実質は村役人が行いました。村役人は村方三役と呼ばれた名主・組頭・百姓代などからなっています。その中でも、名主は村の代表として、領主からの命令を村人に伝えたり、年貢の徴収を行ったりなど農民の生活に深く関わり、村運営の中心的な役割を果たしました。

村の支配と交書

江戸時代は、前の時代と比べて多量の文書が作成され、利用された時代です。これは人々の間に読み書きのできる人が多くなったことを物語っています。
村の支配にあたっても数多くの文書が作成されました。村支配の基本となる上地、年貢、戸口に限ってみても、下の図のように数多くの文書の流れを確認できます。これらの文書から村人の生活をうかがい知ることができます。

喜多町名主水村家

水村家は、川越十か町の一つ喜多町の名主を代代勤めた家です。寛政2年(1790年)の喜多町絵図では、水村家の敷地は間口13間(約23.6m)余、奥行約30間(約54.5m)あり、間口の大きさでは町内で3番目にあたります。かつての水村家住宅は、江戸時代中頃の建築と考えられています。建物は中二階建の板葺屋根で、下屋部分が吹き放されています。内部は南側に通り土間があり、6部屋が2列に配置されています。

江戸時代の村 下小坂村

江戸時代には、農民たちの生産と生活は村を単位として行われ、年貢も村ごとにかかっていました。村の人きさは地域によって違いますが、江戸時代後期の川越周辺では、村高約400石、戸数60~70戸が半均的な1村の大きさでした。
下小坂村は川越の北部に位置し、明和7年(1770年)には村高404石余、戸数75戸、人口305人で、川越周辺では平均的な村といえます。これらの村は今日でも「字(あざ)」として引き継がれています。

久下戸村 名主奥貫家

久下戸村は川越の南東部、荒川右岸の低地にひらけた村です。村の規模は、寛延2年(1749)に村高1397石余、戸数177戸となっています。村のほぼ中央に位置する奥貴家は、長屋門や構え堀をもつなど名主特有の屋敷構えをとっています。奥貫家は代々久下戸村の名主を勤めてきました。五代目正卿(号を友山)(1705~1787)は、寛保2年(1742)にこの地方をおそった大水の際、私財を投じて村人を救ったことで知られています。

奥貫家住宅

埼玉県川越市久下戸4508

奥貫家は、久下戸(くげど)村で代々名主をつとめた名家です。長屋門は、築300年で、川越市の「川越景観百選(田園の景観)」にも選定されています。門の両端スペースは、使用人の住居や納屋として使われていました。長屋門は、上級武士や富裕な農家などの家で建てられました。

19世紀前期奥貫家住宅の復元模型です。※川越市立博物館の展示模型を撮影

奥貫家の間取りの変遷

奥貫家のような古い民家は、そこに住む人の生活の変化に応じて、 建物が改造されてきました。 そのため今残っている建物には、いそいそな時期の改造の跡が見られます。 それらの跡をひとうひとつたどっていくと、その家の歴史が明らかになってきます。

18世紀後期
奥貫家の当初は、土間に接して広い板敷きの「ひろま」がある「広間型」の農家と考えられます。 

19世紀前期
「ひろま」が二つに分割され、「ゆどの」と「うまや」が付け加わります。

19世紀後期
北側に「おくざしき」(二階屋)を増築し、「げんかん」などが設置されます。

旧戸田家住宅

埼玉県川越市鴨田922-1
伊佐沼庵
旧戸田家住宅を改修し、地元食材を提供するうどん「伊佐沼庵」

上新河岸・下新河岸・牛子河岸

この写真は、現在の旭橋を中心に設けられた下新河岸と牛子河岸の河岸場(船着場)の再現模型です。正面が上新河岸、左が川下の千住・浅草方面、木製の旭橋が見える。右が川上の川越方面です。河岸場には、さまざまな荷物が陸路と水路を通じて集まってきます。明治8年(1875年)当時、上新河岸に8軒、下新河岸6軒、牛子河岸1軒の、合わせて15軒の荷物を取り扱う河岸問屋がありました。河岸場には河岸間屋の他に、物資と共に集まってくる人々を相手にした飲食店や宿泊施設も存在し、にぎやかな町並みを形成していました。

模型の写真と同じ位置の土手から、現在の上新河岸を眺める。左側に、現在の旭橋が見える。

新河岸川河岸場跡

新河岸川舟運の歴史は、寛永15年(1638年)川越仙波にあった東照宮が火災で焼け、川越藩がその再建用資材を江戸から運ぶのに新河岸川を利用したことに始まるといわれる。
翌寛永16年、川越城主となった松平信綱は、もと内川といった荒川の支流、新河岸川を本格的に改修、水量を確保して川越~江戸間の舟運体制を整えた。旭橋を中心に、上新河岸、下新河岸、扇河岸、牛子河岸、寺尾河岸の五河岸沿には船問屋商家が軒を並べ、さらに下流には古市場、福岡、百目木、伊佐島、本河岸、前河岸、志木河岸、宮戸河岸などが開設され、明治維新まで繁栄が続いた。

当初は川越藩の年貢米運搬が主だったが、後一般商品も多く運ばれるようになり(江戸行-醤油・綿実・炭・材木、川越行-油・反物・砂糖・塩荒物・干鰯等)舟運を更に発展させた。

現在も周辺には元禄年間の「そうめん蔵」や水神宮、また明治3年建造の船問屋伊勢安の店構えなどがあり、往時を偲ばせている。
昭和55年11月 川越市教育委員会

斎藤家住宅(旧伊勢安)

埼玉県川越市下新河岸45
住宅3棟
川越市指定有形文化財
平成16年3月24日指定

旭橋周辺の3つの河岸場は、当時とても栄えていました。15軒あった問屋は、現代風の住宅に建て替わっていますが、この斎藤家住宅だけは現在でも当時の建物が残っています。